Judy Lee ジュディー リー

Judy Lee ジュディー リー

始まり

Blanche Vianoは若い主婦で、家計のために少しでも稼ぎたいと考えていましたが主婦であり母親であるが故、外に働きに出る事は容易ではありませんでした。

手元のわずかな現金で彼女は、1949年に賭けに出ます。イリノイ州の自宅で自分の会社を設立しました。

ブランシェット株式会社はすぐに現実のものとなり、夫であるAldo Vianoがゼネラルマネージャーとして加わりイリノイ州シカゴにおいてホームセールススタイルの販売方法を確立します 。ちょうど1949年にサラコベントリーがホームパーティスタイルにてジュエリーを販売し始めたので当時の流行のスタイルだったのでしょう。

Judy Leeのジュエリーを販売するホステスはクイーンと呼ばれ売り上げに応じてジュエリーを購入することができる"Diamonds for Datings" と呼ばれるいわゆるポイントのようなものが発行されました

 Judy Leeのジュエリーは、ミス・アメリカ美人コンテストの出場者にも贈られました。ミス カリフォルニア コンテストの公式ジュエラーとして優勝者の王冠と各出場者向けの特別なジュエリー アンサンブルをてがけました。

1965 年の広告では「Judy Leeのジュエリーはアメリカで最も美しい女性にまとわれ、高く評価されている」と見出しがあります。

 

黒とショッキングピンクのボックスは、当時たくさんのアメリカ女性魅了しました。

 

Judy Leeは、さまざまな好みに合わせて、真珠、イブニングウェア、 サマージュエリー、個性的なブローチなども意欲的に作りました。

財布に優しい価格 と自宅でプライベートに買い物ができる手軽さにより、中西部で市場でをすぐに確立 し、何千人ものファッション スタイリスト、クイーンがおのおのの自宅でその商品を販売しました。

顧客は 60 日間の保証と、紛失した石の無料交換を受けられることもできました。

たとえば片方のイヤリングを紛失した場合、ペアの価格の半額で交換することもできたようです。

Blanche Vianoは主婦いつでも主婦目線で彼女の顧客に接していたようです。

現在それらのジュエリーを見ても大変質が良く、状態も綺麗なものが多いのがその品質を証明しています。

 

1972年あたりまで会社は存続していたようですがその後は買収されジュエリーの販売はそれ以降は無くなったようです。

 

Judy Leeのジュエリーは刻印のあるものもあるものの、ないものも大変多く多くは見分け方として特徴的なリベットで止めた石座、ブローチなどの金具の後ろに添えられたフィリグリーなどで判断できます。

また同デザインの色違いも多く、ほんの少しですが1965年に発行されたカタログもあり、そこからも見つけることができます。

こちらからカタログのリンクがあります。

ほとんどのジュエリーはサラコベントリーと同様に名前がつけられております。

デザインは概ねヴィクトリアスタイルが多く後期にはその頃流行したガンメタル(ゴールドやシルバーでなく黒っぽいプレートが施された金属)も取り入れていました。

 

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